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長いこと君のこと思っているよ
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時事・流行に疎い生活を送っているなかで、世間とのキョリは、当たり前だけど自分では分かったものではない。くどいようだけど、近いと感じないのは、キョリがある時のみだ。では、そのキョリは、一体全体なんなのだろうか。
その前に、世間って、なんだ? 自分もそこにいるはずなのに、なぜかそこにいないと思う場所なんだろうか。集団生活をしているから、そこにいる必要があるのだろう。集団で生活するとはなにか。もちろん、同じ行動するという意味ではないことも分かっているつもりだ。言葉を換えていうなら、もっと自分に「気持ちよく」行動する集団はあるのでは。そんな思いで毎日を生きている自分がいる。
キョリ感は、結局ここに自分の居場所がないことなのかもしれない。そう思うのだ。
そんな想いから得た思考とは、どこか自分に合う場所があるはずだと。そう思うと、やはり「探し出す」旅に出てしまう。
前進していくしかない。でも現実では進まない。そのギャップは、心の問題なのだろうか。でもやはり進む先が見えない。そう思えてしまう空気なのだ。前進しているつもりの自分は、本当に進んでいるのか。まったく先が見えてこないのだ。
視点を変えよう。
先が常にあって、目先が曇っているだけということはないか。
そんなことを平気で先輩に言い放つ若かった自分がいた。今のわたしは「先」が知りたい。自分の居場所が見つかっていないからだ。
そんな気まぐれな日々が流れていく。
ふとどこかで聞いていた歌の一節が耳にくっついていて離れられない。これは! と思って探してみることにした。
Superflyの『愛を込めて花束を』。歌詞を探して、じっくり詠んでいたら、久しぶりに感動に近い思いがした。
もっと前からかもしれないけれど、あるいは生まれた時からーー世間とかなり遠くにある場所で生きている気がしてならなかった。これまで一度くらいは、自分の居場所を見つけたと思う出来事があった。結婚して長女が生まれた時だ。結婚して自分が安心できる場所を見つけた。My homeという心的場所。それがわたしの居場所だったのだ。
自分に正直になれない
人生の根本なるものを求めることが、わたしの幼い心に刻み込まれた欲求だった。だがその基本とは答えのない希望だった。幼い頃から両親に死なれたことは、幸か不幸か人より“シアワセとは何ぞや”を考えさせられてきた。
生きることって、家族の支えがあってこそのことなのだ。幸せって家族だったんじゃないか。わたしは今まで神のイタズラでそれを失っては求め、求めては諦めていたものが、家族だったんじゃないか! 彼女は無条件にわたしに見せてくれたのは、ごく普通の家族の温もりだ。しかしそこに彼女が生きていく上での、もっとも必要とする強さを教えてくれた。愛情に満ちた家庭から生まれた優しい強さ。わたしは彼女と出会えた。彼女がわたしの心を支えてくれるはずだ。幸せって、目の前にあるんじゃないか。そうだ。そうだ。きっと“この人!”だ。
『愛を込めて花束を』はこうつづく。
昨日とよく似た今日は 何気ない分かれ道を
分かって選びそびれた 臆病のせいでしょう
この歌を聴いて思い出した。新婚のころのことを思い出した。あの想いがあったからこそ、人生のパートナーとして一緒に人生を歩もうと思っていたのではないか。
約束したとおりあなたと ここに来られて本当に良かったわ
この込み上がる気持ちが 愛じゃないなら 何が愛かわからないほど
自分の居場所がないのは、自分を失い、自分と面と向かっていないのではないかと思えてきた。居場所はそばにあった。探すのではなく、作るべきだと。そしてかつて作っていたはずだ。
何度も間違った道 選び続けて
正しく ここに戻って来たの
巡り巡る時を超え いつもあなたの所へと
この心 舞い戻ってゆく
無理に描く理想より 笑い合える今日の方が
ずっと幸せね
愛をこめて花束を 大袈裟だけど受け取って
理由なんて訊かないでよね
今だけすべて忘れて 笑わないで受けとめて
照れていないで
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