405 – 努力の時間

上を向いて歩こう!

幼い頃から人間は常に頑張るのが常識だったし、努力することが当たり前の環境で、しないことの罪深いことと言ったらない!社会の下層地獄に陥っていけとでも言わんばかりのような、そんな環境だったのだ。

だが、人生のある時点で、努力のし甲斐を失ってしまった。何のために努力するんだろうと。疑問が回答より増えすぎてだんだん努力するのを拒否して行く自分がいた。

思うにこれまでは努力って誰かに認められるためのものだったと感じた。誰かの評価を得るために努力するものだった。あるところで、その評価は自分の求めているものではないとそう感じ始めたから、努力の先にあるものを見失なってしまったのだ。

今のままの自分はなにがイケナイだろう。そう思い始めたのだった。頑張るって所詮無理することじゃないかと。

努力の裏には必ず迷いが生じるものだ。それをどう乗り越えていくかだ。努力の先にあるものを見えているかどうかもわからないのに、努力さえすればきっといい結果が出るというのはあまりにも意味をなせない。

自分にとっての意味のある人生は、おそらく誰にも理解できるようなものではない。でも、まず自分に意味がなくてはならない。努力もそうであるべきだと思った。

404 – 過去の時間

記事をまとめようと思い、過去に書いたものを読みなおす。おどろいた。忘れていた過去がいっぱいブログにつまっていた。

そんなことも考えていたのかと過去の文章から発見するばかりでそれ自体がオドロキにおどろく。ピンキリがあったろうが、連番を振ってからでも一日に一本として400以上の投稿数になる。一年一ヶ月という堆積だ。

でも、かつてならきっと心酔して読みふけっていたに違いないが、今ではまとめる作業に集中することにした。そこにはもうナニモナイのだ。あらたな未知を開拓しないとなにも生まれてこないのだと自分に言い聞かせる。

断捨離を実行するには、身辺のあるものをいかにうまく処分していくかではなく、気持ちの切り替えから始めるべきだ。そうと決めた。断捨離はいつも決断力の欠如で延々と実行できないでいたのだから。

財産は持っていると思った時点ではもう増えない。自分へ投資しつづけるこそが増やすコツなのだ。

いつもの三日坊主になりませんように。新年の抱負を心に刻み込んでそう願うのみ。

403 – 元旦の時間

明けましておめでとうございます。

振り返ることなく、前進するのみ。それが今の気持ちなのだ。

またがんばって毎日書くことをチャレンジしていこうと思う。

402 – 能率手帳を買いましたか

年末年始になると、やりたいことがある。手帳コーナーでの新商品チェックだ。

いつから手帳を使い出したのだろう。思えば営業職に就いたばかりの時のことだ。

外見への自己投資に重きを重んじる営業職業というのもあって、今ふうでいうと多少、いいね! を押してもらえるようなお金を掛けているオシャレなサービス業。

今思えば、変な自己満足でしかなったのに、世間にはそれが心理学的効用があって働く人のカンフル剤とでも思われるのか、それがとても不思議に思ったのだ。

オシャレするのは嫌いではないものの、背伸びして外見で競い合うこと自体はあまり性に合わない。だが、少々心理学作戦を利用して相手に気持ち良くさせる程度ならまあまあと私も弱い人間のひとりだったのだ。

再就職や転職したばかりとかの経験者なら、同じ心境があると思うけど、急に投資できないので買い求めるものも安くなりがち。そこでいかにオシャレに見せるかの知恵を活かしついつい色々新調したわけだ。先々の給料をシャッキンして。未来が現在に対して寛大だねえ。

スーツからネクタイや靴下など上から下まではなんとかしのげるけれど、一つには参った。手帳だ。投資したことがなかったのだ。IT系などはキャンパスノートだったよ。

新しい就職先は、ハッタリが仕事みたいなもんで避けて通れなかった。営業マンはキャンパスノートは禁物だぜ。

安いのを買うのも許されないし自分もシャクだし、高いものを買ったってどうかなと思う自分がいて・・・、悩んだ結果妥協ラインをピシっと引いて買い求めた。

たかが手帳されど手帳。

これまでメールやらリマインダーやら全部パソコンを使ってきたものとしては、なんだか、自分の存在を否定している感が否めない。でも、歩合制の世界だから、これから稼ぐのだと自分に言い聞かせて。

翌日出社して会議に集まった席で、開口一番に部長に、ちっちゃい! と言われてしまったのさ。トホホ。

手のひらサイズじゃねえよ、男の営業マン。。。確かに。カワイスギかも。。。

結局7千円くらいでA5(普段A4の紙を半分折ったくらいのサイズ)のものを買い直したのだった。見開きでA4サイズより大きく、みっともなさもなく、商談テーブルの上で鎮座させておく。

もうひとつ。手帳に埋め尽くされたスケジュールを見せるのもシゴトという手帳の使い方。いわゆる成功する営業マン。時には穴埋めのために手帳をひらいて空き時間を自分に忙しくさせることもあった。何ということだろう。

年末年始のこの時期になると、本屋でついのぞいてしまうこともしばしばあったが、結局三日坊主ならぬだいたい3ヶ月満たずに一年間のうち殆ど書き込みきれなかった。

だが、手帳のカバーは、未だに愛用している。スケジュールの代わりに、320円のノートを買って、ミーティングや仕事のメモがわりになんでも書き込むことにした。

例えば、このブログも伝えたいメッセージをノートに色々と練りながらして、パソコンに作業を移している。最近はそんな使い方をしている。

能率手帳のコーナーでは、スケジュール帳は買わないもの、上質な紙のノートなどを手触り感を確かめるのは、もう年中行事となっている。

401 – 若い社会とは

シンガポールでの出来事。

子どもたちとシンガポールのショッピング街を歩いている途中に長女が急に言い出したのだ。

「なんで老人を見かけないの?」

日本で高齢化社会に生きていることに疑問視しなくなって久しい。でも、子どもたちには、このような社会を与え続けているのも親としての責任を感じる。

老人たちは必死に生きているから、「生きている」社会になっているけれど、子どもたちに強制的にその中で生きさせてゆくのには、甚だ疑問ではあるのだ。

だから、外の世界を見ようと思ったのだ。今回のように子どもたちとシンガポールとマレーシアに行って、良し悪しを含め自分で色々感じてもらいたい。

今の日本はだれも悪い環境とは思っていないはず。だが長続きしないだろう。良さは外から観ることによって、救いたいか切り捨てたいかは、判断力を磨き上げないと簡単にできない。

今回の旅行で子どもたちは日本語しかできないことで、散々親戚たちに言われているけれど、それでも問題なくなんとかなった。私がいなくてもだ。

次回は、仕事している間に子どもたちを親戚に預けようと企んでいる。なんとかしてサバイバルしてもらいたいものだ。

400 – いつものハッピーチャイルド

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子どもを連れてマレーシアとシンガポールに行ってきた。

親バカ丸出しと言われるだろうが、我が子はやはり南国生まれの明るさをDNA的に引き継いでいるのだかもと思った。あるいは、子どもは先天的に生まれつき持っているのかもしれないけれど。

前から、なんで子どもに英語を教えないのとか、中国語が出来ないとうちとは全く通じないじゃないかとか。そう言われながらも小6の長女が一番みんなの子どもの面倒を見るし、良く子どもたちと遊んでいる。

20歳になって初めて日本語を覚えた私。あれからの人生は日本語で生きてきたようなもんだ。そのことを証明するかのように私はなにかを訴えていたいのかもしれない。

言葉を問題視している人ほどコミュニケーションが取れていないのではないかと。

宣伝病のごとくみんなと仲良くなって、どこでも遊べる。

何よりな事実だ。

399 – 一時帰国あるいはいっときの海外旅行

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故郷から離れることはいろんな意味でそこに自分はもう成長しないことだと思う。どんな理由があろうと、そこには自分は存在しないことなのだ。

しかし、情があるのは人間なので、 違う環境で成長しまくって、故郷に戻ってみると、客観的に色々と感想を述べる。やってはイケナイことだが、みんなついやっちまった。感想という名の批判。そこで色々と生じる。

そこに生きていない自分はとやかくいうべきではない。言っているうちは花と思われがちだが、そこで長く生きていく人たちには失礼万全に違いない。

毎回のことだけれど、どこかここは自分の所属感が得られるのではと思って戻ったりしたものの、どうも違うという繰り返しから学習しない喪失感だけが確かな感情だ。

たっぷりと喪失感を味わえて次なる目標に邁進せよ。ここではもう成長しないことを思い出して。ガイジンとして振る舞えるしかないことも忘れずに肝に銘じておこう。

398 – 予想外を予想通りにオソウ

10月に書きためていた文章をマレーシアで投稿している。

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秋の空を満喫しながら朝早く出かけて行く。

朝日は本当に美しく輝いていて、毎朝川辺で写真を撮っている人がいる。私も毎朝撮りに来たい。仕事がなければだが。

仕事の魅力は仕事の中にあるとは限らない。ときには理解できないような、自分でどうしようもできない理屈は、あまり頭を突っ込まないことだ。

もしも問題が発生したら、あるいは波紋が呼んだらそれはそれで仕方ないので、処理にかかる。組織が大きいと、なんでもかんでも関与したがる人はいるが、それが生き甲斐ととりかかっている節がある。ここで仕事とは語るつもりはない。でも、仕事が出来るようには思えない。

仕事にはそういうことも発生する可能性が高いと分かっていれば、きっとジンセイは少しラクになる。あとはかかってきたときに対処方法を持ち出せるように備えることだ。

明日の朝日はまた美しく輝いて昇ってくるに違いない。

そんな俯瞰的な心境なのだ。

397 – 朝が来るまで

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秋が深まると、自宅で韓流映画の上演時間が増えてきた。

いつからだろう、韓国映画にハマり出したのは。

字幕の問題。

英語の映画を観るのに日本語字幕を追うことは、ときには理解の助けになるので、助かる。だが、例えば他の言語、フランス語だったりスペイン語だったりすると、途端に拒否反応をおこしてしまう。

理由を考えて出た結論はこうだ。

理解のできない音は、たとえ(日本語)字幕があっても、なかなか受け付けできない。

音なしでも字を追うだけの学習ができる日本の教育は、大したもんだ。

韓国語は全くできないので、私的には英語よりもフランス語に近い感覚だ。だから、今までは、理解できない音と日本語字幕での組み合わせは、鑑賞できなかった。

だが、いつの間にか理解できなくても耳が馴染んできたのか、拒否反応がなくなった。

もう一つの理由は、韓国映画やドラマはどういうストーリーの作り方なのか興味が湧いてきたからにあった。

やっぱりアジアの国だなあと。これまで自分にない価値観でもストーリーとしてよく理解できる。

歳のせいかもしれない。

未だに誰が誰なんだか、覚えられそうにない。でも、演技のうまい俳優はやはり人気が出るのだ。誰かが評価してくれている。

努力は人に見せるためにやることじゃない。闇が深まる頃にでも自分のために邁進するのだ。

396 – 時は過ぎ行く

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リサイクル店で見掛けた高そうな時計がなんだか自分を待っているように思えて連れて帰ることにした。3,000円でおつりが来た。

前からシルバー系でデカイ時計が欲しかったのだ。でも、なん万円もするものにお金を費やす心の余裕なんかなかった。今でもないけど。将来もありそうにない。

デカイ時計に似合う手があると思う。貧弱、しつれい、繊細な手なんかはちょうど良いサイズの腕時計を見つけるのに苦労するだろう。知らないけど。トンソクみたいな手だと、品が悪い。腕時計には失礼だ。

手首のところだけの肉付けができればいいけれど、手だけ輝いて、全身のバランスが崩れていちゃ、おれセンス悪いけどなにか?みたいな発信者で、自分の首を絞めるような暴挙だ。

でも、男性にはやはりちょっと大きめのほうが人気なんじゃないかな。キョコンと同じでサイズ・ダス・マターなのだ。

付けていて、突然バンドのネジが外れることがあった。仕方なく時計屋に見てもらって合うネジがなく、間に合わせのものを入れてもらったが、再び外れてしまった。

バンドそのものを変えようかなと思ったものの、そのジャストフィットのサイズにやっぱり合うバンドがなく、なぜか真ん中に金色が入っていたりするものばかり。世の中の時計メーカーに聞きたい。オリジナルでは、全シルバーなのに、何故取り替え用のバンドは、全シルバーの選択が殆どないに近いのか。そんな金色入りの趣味の悪いものがだれが買うのか。

急に品が悪くてすみません。

結局修理屋のメーカーに依頼することにしてみた。特殊ネジで見積もりが来て2,520円也。いつも行っている時計屋さんが気に入っているので、お願いすることに。こういうのって結局信頼関係だよな。

今のところとても素晴らしく動いていてくれている。日本の修理って本当に気持ちの良いサービスをしてくれるのだ。この国は捨てられない。

刻まれていく時間に、作りたい想い出を子どもたちと一緒に紡ぎ上げていきたい。腕時計を見ながらそう思った。


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